少し冷静になった今

虐待を受けた子どもの立場から見ると、親の存在というのは単純に言って「悪」「恐怖」「憎悪」の対象であり、被虐待児は「被害者」です。

虐待の被害者にとってはとても分かりやすいシンプルな話です。

親から見れば親の言い分があるのでしょうが、言い分があれば殴ったり放置したり支配したり監禁したり性的暴行しても良い言い訳には絶対になりません。

虐待サバイバー当事者としては自分はそういう気持ちでいます。

でも少し立場を変えて、虐待の問題を社会の一員として考える人間としてみると、少し、親への感情が変わって見えてきた気がします。

本音と建前みたいでかなり強いモヤモヤを感じながら、「被害者」としてじゃない立場に立てました。

母親は母親で悩んでいたことは、今は理解できます。自分の息子ながらにどう接したらいいか、とても難しい性格だったんだと思います。当時は発達障害なんて知られてなかったし、成人して社会に揉まれ失敗を繰り返しながら、それが結果的に社会スキル訓練になって良い意味で大人になれるまで、個性の強い子どもの子育てで、苦労はかけたと思います。

なにより母親自体子ども時代に複雑な思いを持って生きてきた人です。その辛さや悲しさを何度も聞いてきました。

もちろん!だからと言って子どもに何を言ってもいい訳はないし、何をしてもいい訳ではないです。確実に精神的に傷を残し、更に傷に塩を刷り込まれる体験をしました。母親自身の不安ややりきれなさをそのまま息子にぶつけ、気分によって愛情や嫌悪がコロコロ変わり、自分は常に母親の顔色を伺いながら生活をしました。それでも気分屋な性格の母は成長していく自分を精神的に追いつめました。自分は自分を守るために自己を完全に消して、何をされても外面を変えない「地蔵の自分」を続けてきました。

学校も時にイジメがあり、穏やかな気持ちでいる時間というのをあまりした記憶がありません。

傷は今も夢や現実にフラッシュバックになって繰り返し開くので、子ども時代のできごとは過去のことではなく、現在進行形で直面している問題です。

じゃあこれからどう生きていくか?

誰かを恨みながら生きていくことは本望ではないです。でも感情と理性の戦いは常に続きます。不意に起こる負の感情の波を物や自分にぶつけることもまた恐ろしくて、不安はつきまといます。

でもできるだけ穏やかでいたいし、気持ち的な意味で豊かに生きたいです。

不安と恐怖で潰されそうな自分と、豊かでいたい自分の2人が常にいて、気持ちは常に揺れています。

もう少し正直に生きたいです。これからは嫌なものは今以上に嫌と言いたいし、好きなものや感動したものは全身で享受したいです。

虐待をなくしたい、という気持ちを持つ社会の一員としては、単純な善悪二元論では問題を解決する視点は持てないと思います。子ども視点から見た毒親を、毒親としてただ罰して終わりにするのではなく、そもそも毒親にさせない仕組み作りが必要で、それには親だけでない周りの人々の「関心」が必要で、そのためにも「虐待サバイバー写真展」の意義は大きいと思っています。

社会を変えるという大仰しいことではなく、誰もが「親」になる、または「子どもと関わる大人」としての勉強の場が必要だと感じています。

虐待サバイバーとしてはただ恐怖でしかない自分の母親も、サポートや学ぶ機会と気持ち、場があれば変わっていたのではと思います。

世の中の「親という立場」に当たる人たちを、親子や家族単位で多くの人たちでサポートできる環境、できたらと思います。

いずれ、です。今はまだ本音の部分で善悪で考えてしまうし、フラッシュバックに悩む日々です。

葛藤は続きます。

虐待サバイバー写真展

親からの虐待を経験し、それでも親の手から生きのびたサバイバー達の「生きている」写真を撮っています。 これから先の道に希望が満ちていくような願いを込めて作ったサイトです。 15人の被写体の方の応募は締め切っています。この後、虐待サバイバー写真展は、書籍化、実際の写真展に向けて動き出します。